Chairman. HOSODA MESSAGE

弊社代表取締役会長・細田雅春の取材記事や発表した文章などを随時掲載しております。

代表取締役社長

場所を喪失した現代社会
いまこそ問われる都市・建築の役割

最近の世界の無秩序ぶりには、憤りを超えて困惑し、どこにも届かない自らの行動や意見が空しく思えてくる。世界各地で頻発するテロ、難民問題、格差や貧困、政治経済の分野まで無秩序は拡散の一途を辿るばかりである。国民投票によりEU(欧州連合)離脱を決定した英国の無策ぶり、米国の大統領選挙でのトランプとクリントン両氏の不毛な論争、日本においては、派閥による政治の堕落、世界からガラパゴス的と言われる国内でしか通用しない論理、またむごたらしい犯罪などが横行し、いまや現代社会では、誰もが居場所を失い路頭に迷っている。流浪の世界さながら、社会そのものが漂い始めているのだ。

一方、デジタル・ネットの世界では、1つの網の目で世界が結ばれ、どこにいても情報はくまなくつながる。われわれは現在、過去の世界とは全く次元の異なる世界を生きることになったということなのか、その現実が日増しに色濃く自らの身体的感覚や理性までも蝕み始めている。

ネット社会が無秩序、資本主義の暴走招く

さて、世界の現実がなぜこのようになり始めたのか。近代資本主義が出現して以来、次第に国家の枠を超えて資本が流れ、世界をものみ込み始めたのであるが、資本主義は同時に、市民革命を経て民主主義の誕生と進化に大きな影響を及ぼしてきた。

民主主義自体は哲学が盛んだったギリシャ時代に始まったとよく言われるが、その理念が普遍性を持ち始めたのは、資本によって多くの権力構造に変化が起こり始めた近代資本主義の形が整ってからである。マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にもあるとおり、プロテスタンティズムの宗教的精神は秩序だった合理的精神の成立に深くかかわり、同時に近代資本主義の発展に寄与し、経済倫理の変化につながってきたとも言われている。その意味ではプロテスタンティズムは民主主義を発展させ、合理的経済活動とも連動させてきたとも言える。

しかしながら、われわれの予想を超える現代世界が出現した。すなわちグローバル社会という状況である。極論すれば、コンピューターが生みだしたネット社会が冒頭に示した無秩序が跋扈する社会や資本主義の暴走ともいえる経済至上主義の到来を招くことに至ったのである。

さらに、そうした世界では、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などに代表される情報ツールの個人利用が加速し、相互の関係に配慮することなく、個人の感情の赴くまま情報だけが場所や身体を離れて発信され、暴走することになってきたのである。個人が生きて存在する場所の持つ環境や特性を離れて、自らの感情に合致したメッセージだけを受け取ったり、瞬時に共感できるという結果が今日のネット社会の現実を生み出している。

心の伝わらない対話 危うい「意見」が支配

英国のEU離脱を生み出した国民投票も、先の東京都知事選挙も、また米国の大統領選挙も、その多くは同相である。インターネットやSNSがそうした結果をもたらしていると言っても過言ではないだろう。それは、いうなれば、心が伝わらない対話である。場所や空間を共有しないまま情報だけがつながり、共振して振幅が急に増幅するという危うい「意見」の連鎖が世界を支配し始めたということなのである。

口幅ったい言い方になってしまうが、人間が生きていくとき、場所に根ざしていること、すなわち戻るべき場所があるということを忘れては社会のありようを考えられないはずだが、ネット社会にはそれがないのだ。仏教には「往還(おうげん)」という言葉がある。人間はどのように行動し、飛び跳ねても、いつかは戻るべきところに戻るという考えである。そうした場所や空間があるからこそ、人間は世界のあらゆるところにまで行動範囲を拡大することができるのである。

不可逆な社会変化 多様な意見が豊かさ

それは国家のレベルの問題でも同じであろう。ある1つの場所に集えるからこそ、仲間の存在を感じ取れる社会が存在するのであって、限定された相互の関係がある程度視覚的に確認可能な範囲で、生きた会話ができるのである。お互いの感情や生き方、さまざまな人間関係の中、時には遠慮や妥協、あるいは忍耐もありながら、ある種の秩序や規範の了解が成立し、社会は成り立つのである。

例えば、国家首脳が集う国際会議ですら、最終的な重要決定は、一堂に会した場所でのFace to faceでのやり取りでなければ結論が出せない場合が少なくない。各国の微妙な考えの相違や相互のやり取りの中、時々に応じて変化する状況が結論のあり方に影響を及ぼすからである。

そうしたリアルな場面を介さないSNSなどの情報だけのつながりが、今日の悲劇を生み出していることはある意味では明白である。しかしながら、もはやそれを回避することはほとんどできない。このような不可逆的な社会の変化は、インターネットの世界だけで起こっているわけではないが、そうした勢いのある流れに対し、新たな潮流を絡ませることに救いを見出すことはできるだろう。社会からの批判など多様な意見、あるいはさまざまな立場の異なる世界からの指摘によって、修正ばかりかさらなる豊かさを盛り込むことは十分に可能だからである。

現代社会の「歪」制御 自覚持ち要請応える

しかしながら、こうした無秩序が拡散する社会の中でこそ、都市や建築に与えられた唯一無二の役割がクローズアップされる。建築や都市が場所を生み出すことで、人々のFace to faceのコミュニケーションを成立させる基盤となるからである。東日本大震災のあと、「みんなの家」が話題になったのも、そうした場所を生み出したからだ。居場所を失った人々の不安を取り除き、安心できる、心のよりどころとなる建築のあり方を示したことは、既に多く語られているとおり、建築や都市の大きな役割を示したことにほかならない。

しかし、「現代社会の歪を制御する空間装置」として建築や都市の果たす役割にますます期待は高まっているはずだが、果たして現代の建築や都市がそうした期待に正面から応えているだろうか。そして、現代社会が喪失しつつある秩序や人間の存在に対し、本来の姿の回復を促すために、都市や建築の世界が奮起することがいかに大きな意味を持つことになるのかを理解しているだろうか。いま、建築界が問われていることは、そうした自覚をもって、現代の都市や建築が置かれているそれぞれの場面に相応しいテーマを見出し、現代社会の要請に応える建築の姿である。それはまさに、現代の都市や建築に課された喫緊の課題なのである。

日刊建設通信新聞
 2016年8月31日掲載